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2010年11月23日

遠州七不思議

遠州七不思議 『片葉の葦(よし)』遠州七不思議
浜松市頭陀寺町に、『片葉の葦(よし)』があります。
五百年の昔のことでした。後には、日本一の大将軍となった豊臣秀吉が、まだ木下藤吉郎と言った少年のころ、今の浜松市頭陀寺町の、松下嘉平次という武士の家に、下男として働いていました。
藤吉郎は毎日、馬の飼い葉の草を刈ったり、畑を耕したりが、仕事でありました。だが末には、偉い武士になろうと考えているのに、こんな仕事は、イヤでイヤでたまりませんでした。だから、『おい、馬の草を刈って来い』と言われますと、『はい』と、鎌と、砥石を持って家を出るには出ても、なかなか、仕事が手につきません。それなので、近くの池のほとりに行って、鎌を研ぐと、その切れ味を見るために、前に生えている葦の、片方へ出ている葉のみを、『やッ、やッ』と切るのです。それは戦に出たときの、敵の首を切る、練習なのです。それからまた、辺りに散っている松葉を拾って、それを一本一本にして、
『えいッー』と、手裏剣のように、小川の中に泳いでいる、小魚の目を狙って、投げつけるのでした。
川の中の小さい魚の目に、軽い松葉を投げても、なかなか、当たるものではありません。でも藤吉郎は一生懸命、『えいッ、えいッ、これでもか…』と、やっているのです。 藤吉郎は毎日のように、こうして松葉の手裏剣をやるので、だんだん上手になって来て、ついには、三度に一度は、魚の目に当たるようになりました。こうして藤吉郎は、ここで、鎌や松葉を使って、武芸の稽古をしたのでありました。 
それでその後、この鎌を研いだ池を、『秀吉の鎌研ぎ池』と言うようになり、この池に生える葦の葉は、藤吉郎が片方の葉のみを切り落としたので、『片葉の葦』となって生えていると言います。
なおまた、この辺りの小川の魚は、藤吉郎の松葉で片目を刺されたので、みんな片目の魚になったとも言い伝えられています。しかし今はもう、浜松の発展と共に開発されて、鎌研ぎ池は埋められてなくなり、このあたりに、『鎌研ぎ神社』という、小さなお宮があるだけです。そして片葉の葦も、片目の小魚も見ることはありません。でもこの頭陀寺町には、『松下嘉平次屋敷跡』という小公園があり、ここから一キロほど東の方に、『目刺し』という地名が残っていますし、その近くには、小さい橋だけど、『目刺橋』という橋があります。遠州には、徳川家康の伝説はたくさんありますが、豊臣秀吉の伝説は、これが一つだけです。

遠州七不思議 「三度栗(みたびくり)」遠州七不思議
四〇〇年の昔のことでした。浜松城の徳川家康は、ある日、敵と戦って負けて、家来三人と、磐田原の北、大谷のあたりを逃げていました。その時、お昼の頃となりました。『ああ、腹がすいた。弁当だ』
家康はそう言って、道の傍らに、でんと腰をおろしました。家来たちも休んで、弁当をと、背中の荷物入れから取り出しました。家康は、家来の出した弁当の箱を、待ちかねて、すっと開きました。ところが箸が入ってありません。『おい、箸がないぞ』『そうですか』家来はびっくりして、急いで近くにある栗の木の小さい枝を二本、ぽきりぽきりと折って持ってきました。『さ、これで…』『うん』家康はその栗の枝を箸にして、弁当を食べました。食べ終わるとその箸を、ぐっと地に差し込みました。『芽が出よ。俺が天下を取ったら、一年に三度ずつ実がなれ』と言って、にっこり笑って立ち上がりました。するとその後、この栗の枝は芽が出て、すくすくと大きくなりました。そして三十年後、家康が江戸に出て、徳川幕府を開くと、この栗は一年に三度ずつ、花が咲いて実がなる、不思議な栗の木となりました。今でも、ここには、三度は実らないが、二度は必ず実るという、不思議な栗の木が生えています。また、小笠郡菊川町の三沢にもあります。何百年か昔の、秋のある日のことでした。弘法大師という、偉い坊さんが、国々を巡って、この村に訪ねてきました。そのとき、村の子供たち四、五人は、山で拾った栗の実を、美味そうに食べていました。
弘法大師は、それを見ますと、『わしにも一つ、くれんかのう』と言いました。子供たちはニッコリして、『はい、どうぞ』と、ごろごろッと、大師の手の平の上に、山のように乗せてやりました。大師はその子供たちの素直さに、とても嬉しくなりました。それで、『これは、これは、よい子じゃな』と、同じように食べながら『このお礼には、これからこの村に、毎年きっと三度ずつ実る、栗の木を作ってやろうな』
と言って、子供たちの頭をなでながら、いくつかの栗を、土に埋めて、軽く右足で押さえて、どこともなく行ってしまいました。それから後この村には、一年に三度、七月花が咲いて八月実り、八月花が咲いて十月実り、十月花が咲いて十二月に実るという、不思議な不思議な栗の木が生えたと、言い伝えられています。
なおまた、その他、小笠郡大東町浜野にもあります。徳川家康は、高天神城での戦いの時であったか、小笠郡の南部、海岸近い辺りを、一人で歩いていました。すると不意に数人の敵が現れて、『やッ、あれは徳川方だ、捕まえると、褒美がもらえるぞ』と迫って来ました。家康はようやく逃げて、浜野の村まで来ました。『やれやれ、ひどい目に遭った。ああ、腹が減った』家康は逃げて助かったと思うと、急に腹が空いて来ました。ふと見ると、そこに一軒の農家があります。『おい、何か食べるものはないかい』農家には、六十を過ぎたお婆さんが一人、留守をしていました。お婆さんは、『栗ご飯でよろしければ…』と、奥から、代用食のつもりの栗ご飯を持って来ました。家康は大喜び、『美味い、美味い、このお礼には、栗が一年に三度ずつ実るようにしてやる』と、栗の実を一つ、庭先に埋めて行きました。するとそれは、一年に三度ずつ実る、不思議な栗の木となりました。

遠州七不思議 『小夜の中山夜泣石』
遠州七不思議
掛川市から、国道一号線を東へ、ほどなく牧ノ原という辺りで、日坂トンネルを越しますが、この南の山の上に、旧道の、『小夜の中山の峠道』というのがあります。ここには、『夜泣石』の、不思議な伝説が、今も伝えられています何百年か昔のことでした。小夜の中山の峠道の東、菊川という小さな村に、京都のある立派な家につとめていたらしい、若い男と、その妻が、何かの事でこの村に、移って来て住んでいました。
妻の名は、『小石姫』と呼ばれる、美しい人でした。二人は少しばかりの畑を耕したり、村の子供たちに、剣術や文字を教えたりして、ようやく暮らしていました。でも二人は、こうして貧しいながらも、むつまじく楽しく、そして小夜の中山峠にある、『久延寺』というお寺へは、毎月何度もお参りして、本堂の観音さまに、必ず三文ずつのお金をあげて、無事と平和を祈っているのでした。ところが、ある年のことでした。
夫は用事があって、京都の方へ行ったまま、いつまでも経っても、帰って来ませんでした。小石姫はその時、お腹に子供ができて、生まれるのも、もう近くなっているという時でした。それで毎日のように、『まだ、帰らないかしら』と、門口に立っては、西の空を眺めながら、寂しそうにしているのでした。
それは、夫を待っているだけではありません。子供が生まれるのが、心配なだけではありません。収入のないこの頃、暮らして行くことが出来なくなったのが、何よりも、大きな悩みでした。『もう、明日食べる、お米がない。それにお金もない』困ってしまった小石姫は、ふと、昔から家に伝わっていて、京都から来るとき大切に持って来た、『赤玉丸』という、立派な刀のあることを、思いつきました。『そうだ、あれで、お金を借りてこよう』 箱の中から刀を出して、ほこりを払って、眺めました。(申し訳ありませんが、お許し下さいませ)小石姫は心の中で、夫に深くわびると、それを持って、夕暮れの道を、日坂の町へと、急いで歩き出しました。その道の中ほど、小夜の中山の峠に来たころは、もうすっかり日も暮れて、細いお月さまの下には、松の木がざわざわと、風に吹かれていました。その時、久延寺の和尚さんのつく鐘の音が、
-ごごーん、ごごーん。と、辺りに、響いていました。道のほとりに、大きな丸い石があって、その横には、名も知らない白い花が二つ三つ、静かに咲いていました。と、その時です。『おい、待てー』
大石の陰から飛び出たのは、恐ろしい顔の、悪者でした。『やい、金を出せ。あるだけ置いて行けー』
『えッ…』『金を出せ』『私は貧しいもの、何もありません。お見逃しをー』小石姫がそう言って逃げ出そうとすると、悪者はさっと手を伸ばして、小石姫の着物の端を、ぎゅッとつかんで、引き戻そうとします。
『あれえー助けてー』小石姫は大きく叫びましたが、辺りには家はなし、人通りもなし、どうすることも出来ません。今はこれまでと、持っていた刀を抜いて、立ち向かいました。『何をー』悪者は目を輝かせて、隙を狙っています。小石姫は、必死に刀を振りましたが、お腹は大きく、力の弱っているとき、それに剣術の心得もない身での重い刀、とうとう、逆にもぎ取られてしまいました。『ええッい、こんな女ー』悪者は取った刀で、小石姫に斬りつけました。小石姫は、身をかわす間もなく、肩から腹にかけてずぶりと切られ、刀はそばの大石にあたって、ガチッと音がしました。小石姫はどたりと倒れながらも、お腹を押さえ、
『南無、久延寺の観音さま、お助けをー』と、細い声で言いましたが、それは夕風の中に消えて、哀れにも、息はそのまま、絶えてしまいました。『ふん、ざまを見ろ』悪者は冷たく笑い、手に持った刀を見て、
『こりゃ、いい刀だ』と、小石姫が左手に握っている、刀のさやももぎ取って収めました。そして次には、着ている着物まで、盗もうとしました。と、その時、誰もいないと思ったこの山道に、-しゃリーン、しゃリーン、と鈴の音がして、一人の旅の坊さんの、近づくのが、見えて来ました。『ううん、まあよせ』
悪者はどこともなく、刀を持ったまま逃げて行ってしまいました。するとその夜から、この大石のほとりで、赤ん坊の泣く声が、細く長くと、聞かれるようになりました。『おや、赤ん坊の、泣き声のようだ』
『でも、あの辺り、人の家はない。不思議だな』『石が泣くずらか』村の人たちは、そう、噂をしていました。ところでその夜、久延寺には、不思議なことがありました。お寺の和尚さまが、観音さまに夜のお経を上げようと、本尊さまの前に座って、ふと見ますと、観音さまの、お姿がありません。このお寺の本尊さまは、掛け軸に書かれている観音さまでありますが、今日はお姿がなく、白い紙だけとなっているではありませんか。『こりゃ、大変だ』和尚さまは、青くなって、お経をやめてしまいました。『誰かに、盗まれたのだ、明日の朝になったら、村の人を頼んで、探してもらわなけりゃ』和尚さまは心配しながら、眠りました。だが次の朝、本尊さまの前に行って見ますと、本尊さまはちゃんと、元の通りになっているのでありました。『やれやれ、これで安心した』和尚さまは、いつもの通り、すがすがしくお経を上げました。しかしよく見ると、今日の観音さまは、右手に赤ん坊を、抱いているように見えますので、『不思議だな』と、思っていました。

遠州七不思議 『桜ヶ池』『お櫃納め』遠州七不思議
小笠郡浜岡町の桜ヶ池では、毎年秋の彼岸の秋分の日と、その翌日、『お櫃納め』のお祭りが、行われます。八百年の昔のことでした。京都の比叡山という、そのころ日本一に大きいお寺に、皇円阿闍梨上人という、偉い和尚さまがおりました。皇円阿闍梨上人は、仏の道を、深く調べているうちに、『一体人間は、死ねばどうなるのか』など、色々と、分からないことが、沢山できて来ました。それで、『もう三千年、早く生まれていたならば、インドへ行って、お釈迦様にお目にかかって、教えをいただいたものをー』と、残念に思いました。が、そのうちに、支那から来た、ある仏教の本の中に、『お釈迦様がなくなってから、五十六億七千万年の後には、弥勒菩薩という、お釈迦様のように、偉いお方がこの世に現れて、濁っている世を救って下さる』と、あるのを見ました。阿闍梨上人は、過ぎ去ったことは元に戻らないが、これからならば、待っていれば来るからと、『ではそれまで生きていて、弥勒菩薩様の教えを受けたい』と、考えました。だかしかし、人は死ねば、また生まれ変わってくるとは言うが、一度死ねば、すべてを忘れて、先のこと、覚えていることはありません。だから生きていなくては、弥勒菩薩様にお目にかかるという願いは、消えてしまいます。人の命は長くて、百年、とうてい五十六億七千万年とは、生きられるものではありまん。
それで、色々と考えた末に、(この世の中で、一番の長生きは大蛇である。では大蛇となって、それまで生きていて、教えを受けることにしよう)と、心に決めました。ですが、大蛇となって、大海原の中に住むと、きんしちょうという大きな鳥が来て、一日に一匹ずつ大蛇を食べるというから、これでは駄目です。何とかして、日本の国の中に、いい池を見つけて、そこに住むことです。そこで弟子の坊さんたちを集めて、
『大蛇の住むによい池を、国々を歩いて探してくれ』と、頼みました。それで弟子たちは、四方の国々を、探して歩き出しました。するとその中の一人、ちゅう記という坊さんは、遠江の国に来ました。と、ある夜の夢に、『この国の南に、桜ヶ池というのがあるから、それに行って見よ』という、仏さまの、親切なお告げを見ました。『これは、ありがたい』ちゅう記は大喜びして、道を聞き聞き、桜ヶ池へと行きました。見るとこの池は、山の上にある大池で、東と北と西には、こんもりと繁る、緑の大木があって、人も行けないほどのすごさ、しかも南は海に向かっているという、まことに厳かな感じのする、美しい池でありました。
『なるほど、ここなら、きっとお気に召すでありましょう』ちゅう記は、池の水を竹のツボに入れて、それを持って、比叡山へと帰って来ました。そしてこのことを、阿闍梨上人に申し上げました。
『それは、ご苦労だった。ではすぐと、その桜ヶ池へ行く』 阿闍梨上人は、大喜びでそう言うのでした。
『えッ、今すぐですか』『そうじゃ、早いがいい。みんなを集めてくれ』『はい』やがて弟子たちや、比叡山の坊さんの、すべてが集まりますと、皇円阿闍梨上人は、静かな声で、『では、みんな、いつまでも達者で、仏の道を励んでおくれ』と言いました。そして、玉のような声でお経を読みながら、桜ヶ池から持ってきた、竹のツボの水を、手の平にたらたらと、流し出しました。と、急に黒い雲のかたまりが出てきて、上人の体を包んだと思うと、上人の姿はもう、恐ろしい大蛇となっているのでした。『あッ、お上人さま、お上人さま』みんなが、大騒ぎする中を、『皆のもの、さらばじゃ』と、上人の大蛇は、その黒雲に乗って、東を指して飛んで行ってしまいました。その後、遠州の桜ヶ池では、激しい雨と大風、今まで見たこともない大水で、池の泥が、残らず洗い出されて、きれいな池となりました。『どうしたのだろう』村人たちは、不思議でなりませんでした。だがそのうちに、比叡山の皇円阿闍梨上人が、大蛇となって住んでいると聞きますと、『えッ、上人さまの大蛇…』と、びっくりするのでした。ところで、それから二十年ほど後のことです。皇円阿闍梨上人の弟子の、法然上人という、浄土宗という一派を開いた偉い坊さんが、三人の弟子を連れて、この桜ヶ池に訪ねてきました。法然上人は、『阿闍梨上人さまが、大蛇となっていられるなら、今一度お目にかかって、色々と、お話をしたい』と、思うからでした。法然上人たちは、桜ヶ池の畔、青い草の上に座って、熱心にお経を読み出しました。お経の声は、緑の池の上を、静かに静かに、一面に流れて行きました。そしてそのお経の後に、『阿闍梨上人さま。是非、お姿をお見せ下さいませ』と、二声、三声呼びました。と、不意に、池の波が揺れたと思うと、阿闍梨上人の昔のままの姿が、波の上に現れて来ました。『あッ、お上人さま』思わずも、叫びました。『おお、法然か、よく来てくれた。さあ、こちらへー』
その時、池の水が二つに分かれて、一筋の道が底へと続いています。法然上人たちは、言われるまま、その道を下りて行きますと、底には、立派な大きな、お寺がありました。『ああ、池の底に、こんなに大きな』
法然上人たちは、びっくりしながら、ここで阿闍梨上人と、昔の話、仏様の話などと、時の経つのも忘れるほど話し合いました。法然上人は、『私は今、人間は誰でも、南無阿弥陀仏の法名を唱えれば、死後は必ず、極楽の美しい世へ行かれる道を、見出しました。上人さまも、そうなされて、五十六億七千万年を大蛇で、お苦しみなさるよりもー』と言いましたが、阿闍梨上人は、『私は、弥勒菩薩様と、約束がしてある。今更やめることは出来ないが、お前は、その教えを、今の世の人に、広く進めるがよい』と、言われるのでした。やがて法然上人たちは、阿闍梨上人に送られて、池の底のお寺から、地上にと出てきました。ところでその時、法然上人はふと思い出して、『阿闍梨上人さま、お別れのお土産に、今のお姿を一目ー』と頼みました。『おお、易いことだ』阿闍梨上人が、ニッコリと、頷いたと思うと、急に池の上に黒い雲が広がって、池の上は夜のように、真っ暗となりました。と、見るとその雲の間に、きらきら、鱗を光らせた、大蛇の姿がありました。『あッー』弟子の三人は、それを見ると、あまりの恐ろしさに驚いて、地に伏せてしまいました。大蛇の両方の目は、鏡を並べたように輝き、口からは真っ赤な火を噴き出し、大刀のような牙、針のようなひげ、恐ろしく鋭い爪を持っているのですから、驚くのも無理はありませんでした。だが法然上人は、じっと見上げながらに、『阿闍梨上人さま、誠に、恐ろしいお姿でございますね。ですが聞くところによりますと、大蛇には三熱の苦しみがありますとか、本当にそうでございますか』と、聞きました。すると大蛇は、二つの目からぼろぼろと熱い涙を流しながら、阿闍梨上人の、普通の声で、『その通りだ。それというのは、わしの身体には六万四千の鱗があって、それに六万四千の小虫がついて、夜も昼も、わしの肉に食い入るので、その苦しみは、言いようもないのだ』と言うのでした。『左様ですか、そのお苦しみ、お察しいたします。では私が、今までに習い覚えました、南無阿弥陀仏の法の力ならば、そのお苦しみも、取ることが出来ると思いますが』法然上人が言うと、大蛇は、『よく言ってくれた、頼むよ』と言うのでした。『はい、では、下りて来て下さい』 雲の上の大蛇は、池の畔に下りて来ました。『ではー』法然上人は、水晶の数珠を持って、大蛇の身体を、『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』のお経を唱えながら、三回通りなで回しました。すると大蛇の六万四千の鱗は、秋の風に木の葉が散るように、バラバラと落ちてしまって、六万四千の小虫もなくなりましたので、痛みは消えてしまいました。『ありがとう。弟子のお前ならばだ』と、喜ばれました。それと一緒に、大蛇の姿は、煙のように消えて、桜ヶ池は、もとの静かさに戻って、木の葉の音が、聞こえていました。それから後、この桜ヶ池には、鱗のない、皇円阿闍梨上人の大蛇が、五十六億七千万年後の、弥勒菩薩のお出を待つため、今もなお、池の底深く住んでいると言われています。それで毎年、秋の彼岸の中日の日(秋分の日)とその次の日、その大蛇の食べ物とするため、赤飯を入れたお櫃を、何百八となく、桜ヶ池の底深く沈めているのであります。お櫃の直径は五十センチ、深さ二七・五センチ、三キログラムの赤飯を入れて、青年たちの手によって沈めますが、この赤飯のお櫃は、すぐには浮き上がらず本当に大蛇が食べるのか、十日ほどして中の赤飯がなくなると、空のお櫃がぼかりと、岸の辺りに浮き上がってくるのです。

遠州七不思議 『京丸牡丹』
遠州七不思議
周智郡でも、一番北の山の中に、春野町気多の町があります。この町から、昔は道もない山の中を、三十キロも奥へ行きますと、そこに、『京丸』という、戸数五戸の村がありました。ここは六〇〇年の昔、源氏と平氏と戦って、負けた平家の人たちが、逃れて来て住んでいるのだと言われています。そしてこの村には、人も行けない気田川の、険しい川の渕に、美しい、大きな牡丹の花が咲くというので、遠州七不思議の一つとして、広く名を知られています。それは毎年五月咲くとも、六十年に一度咲くとも言われています。それについてこんな話があります。いつの頃でしたか、昔の、昔のことでした。ある日、この山の中の京丸の村に、若い男が一人、迷い込んで来ました。男は険しい山道を歩いて来たこととて、すっかり疲れ果てて、ものも言えないほどでありました。それに山の中の道では、食べるものはなし、安心して休む所もなし、まるで病人のようでした。男は、この村の村長の役をしている、藤原という家の戸口に立ちました。『ごめん、下さいませ』『どなたじゃな。おお、見慣れない、旅のお人じゃな、どうなされた』『はい、道にはぐれて、来てしまいました。お宿を、何卒よろしくお願いいたします』『うん、よしよし』村長は親切に、食べるものをくれたり、泊めたりしてやりました。そのお陰で若い男は、次第に元気になって来ました。ところで、この村長の家には、若い美しい娘が一人ありました。娘もまた、やさしく親切に、何くれと男の世話をして、いたわっていました。こうしていく日かが経つと、男はすっかり元気になりました。だがこの若い男は、この村から出ようとはしません。それよりも、村の人たちと一緒になって、炭を焼いたり、木を切ったりと、山の仕事を手伝うのでした。というのは、男はいつか、村長の美しい娘と、仲良しになって、暇さえあれば、話し合っているのでした。村長はそのことを感づきますと、『困ったことになったなあ』
と、頭を痛めるのでした。それはこの小さい村では、昔からよそから来た人を、村人とはしない、という決まりになっているからでした。それはこんな狭い土地、人が増えると、食べるものが、なくなるからでありました。村長は困った末に、『旅の人、この村にはな、決まりがあるでのう、どこかへ行って下さらぬか、村長として、私から決まりを、破ることはできませんでのう』『はい』『よろしかったら、娘は、連れて行っても良いでのう』『はい、では…』次の朝、若い男は娘を連れて、京丸の村を出て行きました。村長は若い二人が、どこかで幸福に暮らすことを、心の中で、静かに祈っているのでした。ところがです。それから五月ほどした、ある日の夕暮れ時でした。『お父さま、お父さま』と、裏口で、小さい声で呼ぶ声がしました。『誰じゃな』村長が行って見ますと、それはあの若い二人が、みすぼらしい姿で、しょんぼりと立っているのでした。『あ、お前たちか』『はい』『困ったな』『……』『だが、村の決まりは、厳しいのじゃよ』村長は、きっとして言いました。『はい、お父さまの、お顔さえ見れば…』娘も男も、泣いていました。今は、そう言うより他には、言うことはありませんでした。二人はあれから後、方々をさまよって歩きましたが、その頃のこととて、身寄りを持たない二人には、どこにも働かしてくれる所も、身を寄せる所もなく、乞食のようにして来た末でした。それで、不便な山の中とは言え、子供の頃から育っただけに、京丸の村が何よりも懐かしく、ついに、二度と帰って来たのでした。ところが帰って来て見ると、村の決まりがあるからと、厳しい父の言葉、娘たちは淋しくなって、その後、父の家に泊まりはしたものの、あまりのしさに、眠ることはできませんでした。寂しい、寂しい夜、ついに二人は、夜の明けぬ前に、そっと、村長の家を出ました。山の中でも、お月さまは美しく輝いていましたが、二人には、その美しいお月さまの顔は見えませんでした。次の朝、村の前の気田川の渕に、二人の死骸が、白く浮いていました。『あッ、村長さんの娘がー』炭焼きに出た村の一人が、見出したのでした。それから後、行き場のない二人の魂は、毎年死んだ日になると、大きな牡丹の花となって、気田川の渕を、白く飾るのでした。そしてその白い牡丹の花は、一片ずつ散って、気田川を流れて来るので、川下の人たちも、その話に涙を流すのでした。

余談だが、一体、その深い山の中に、牡丹の花が咲くであろうか。そしてこの牡丹は、毎年五月に咲くとも、六十年に一度咲くとも言われますが、本当でしょうか。しかし、京丸の藤原家の先代、藤原忠教さん(昭和五十五年三月五日八十三歳死去)の話によると、大正二年五月の雨の朝、京丸牡丹谷の中腹に、カラカサ大の白い花をはっきり見たと話されたと言います。その谷は人の行けない、厳しい谷とのことです。
※京丸の里は大自然・南アルプスの山の中にあり、昭和40年ごろに廃村となってしまった幻の里です。。

遠州七不思議 『無間の鐘』
遠州七不思議
今から、約千二百年ほど前の古い昔、菊川の里に近い滝に、弘道仙人という偉いお坊さんが住んでいました。この仙人は、自分が信仰している不動明王のために、小さな釣鐘を一つ作り、粟ヶ嶽の頂上の古い大きな松の木の枝にかけて、こうお願いしたのです。この鐘を、
一度つくと災難に会わず。
二度つくと病気にかからず
三度つくと家に良い事があり。
四度つくと好運に恵まれ。
五度つくと子孫までも栄え。
六度つくと勝運に恵まれ。
七度つくと末長くお金持ちになれる。

この話を聞いた人々が、粟ヶ嶽の鐘をつけば、必ず大金持ちになれるものと思い、我がちに、鐘をつこうと粟ヶ嶽へ登っていったのです。でも、古い昔のことですから、道も狭く草や林の間を見え隠れに続いているような危ない道なので、足を滑らして谷底へ落ちて、大怪我をしたり、死ぬ者まで出たりする有様でした。
そのため、いつの頃からか、『地獄へ落ちる鐘』と呼ばれ、恐れられるようになりました。その頃、小鮒川のほとりに一人の長者が住んでいました。たいそう欲深で、乱暴な人だったので、人々から、『荒石の長者』と呼ばれていました。この長者も、他の人々と同じように、粟ヶ嶽の鐘をつけば、末長く大金持ちになれる者と信じて、欲にかられて、山へ登っていきました。木の根や草の根にすがって、どうやら頂上にやってくると、大きな松の木の枝に、鐘がつるしてあるのが見えました。喜んでそばへ駆け寄り、力一杯鐘をつきました。すると、どうしたことでしょう。鐘の音が鳴り終わるか、終わらぬうちに、長者は、そのまま地獄の底へ落ちてしまいました。地獄に落ちた長者は、毎日ご飯を食べようとすると、ご飯がいつの間にか虫に変わってしまい、どうしても、ご飯が食べられません。そのため長者は、すっかりやせてしまい、それ以来、毎日、ご飯を探し求めて地獄の底を歩き回っているそうです。このように多くの人々が鐘をついては、地獄の底へ落ちていきました。この鐘があるために人々が不幸になることは、最初に、粟ヶ嶽の頂上に鐘をつるした仙人の願いからはずれる者だとして、中腹にある観音寺の和尚さんが、この鐘をはずして、頂上にある深い井戸の底へ埋めてしまったと言うことです。

遠州七不思議 『波小僧』
遠州七不思議
静岡県の西のはずれ、引佐郡引佐町に、四方浄という所があります。昔ここに、子供をたくさん産んでいる、女の人がありました。女の人は今年も又、お日さまが、懐に入る夢を見て、男の子を産みました。
ところがその赤ん坊は、朝から晩まで、大きな声で、泣いて泣いて、少しも休まないほどでした。『困った子だな』お母さんは、心配で心配でなりませんでした。するとその時、隣の三河の国の、滝村という所の、新福寺という、大きなお寺の和尚さんが、通りかかりました。和尚さんは、ふと耳にしたお経の声に、
『おや、あれは、法華経を読む声じゃないか、こんな山の中で、尊いお経の声を聞くとは、ありがたい事じゃなあ』と、その声のする家に、入っていきました。行ってみますと、それは赤ん坊の泣き声ですので、『お、赤ん坊かー』と、びっくりしました。それで、(この赤ん坊は、今にきっと、偉い人になるに、違いない)と、抱き上げました。そして、『この子を、私にくれませんか。私が丈夫に育て上げて、和尚さんにして、きっと立派な人にして見せますから』と、お母さんに頼みました。お母さんは、赤ん坊の泣き虫なのに、すっかり困っている時ですので、直ぐと、『どうぞ、よろしくー』と、承知しました。それで新福寺の和尚さんは大喜び、赤ん坊を懐に入れて、直ぐと自分のお寺に帰ってきました。そして親切に、育てました。お陰で赤ん坊は、すくすくと、よく育って行きました。やがて七つになった時、その子をお坊さんにして、さらに色々と、修業をさせました。するとその子は、実によく勉強をしました。そして立派な和尚さんとなりました。この人が、その頃、日本でも有名な偉い和尚さん、『行基菩薩』という、お坊さんであります。行基菩薩はある時、故郷の四方浄に、もうお婆さんになった、自分のお母さんを訪ねてきました。行基菩薩は、お母さんの顔を見ると直ぐ、懐かしげに、『お母さん、私は赤ん坊の時、お寺にもらわれて行った、あなたの子です。お陰で、こんなに大きくなりました』と言いました。それを聞くと、お母さんもにこにこして、『そうか、そんなに大きくなったのか。懐かしいなぁ…。だが今日は、田植えで忙しくて、ゆっくり話してもいられないが、困ったなぁ』と言いました。すると行基菩薩は、急に目を輝かせて、『では、お手伝いを、しましょう』と、そこにあった藁を取って、二つの小さい束を作って、藁人形として、それにお経を上げました。すると藁人形は、どんどん動き出しました。行基菩薩は、それに向かって、人を相手にしたように、『そら、田植えをしておくれ』と言いながら、田圃の中に入れてやりました。と藁人形は、人と同じように、もっとそれ以上に、よく働き出しました。そして見る間に、お母さんの田を、すべて植えてしまいました。『ありがとう。ありがとう』お母さんは、大喜びしました。それでお母さんは、その藁人形にごちそうを出したり、お菓子を出したりして、小舟に乗せて、川へ流してやりました。そうすると藁人形は、小舟の上で、『お母さん、色々親切にして下されて、ホントにありがとうございます。このお礼には、海へ流れて行ってから、波をならして、お天気の悪くなるのを、お知らせいたしましょう』と、言いました。それから後、天気が変わって、大雨や大風の来る時、波の音が遠くまで聞こえるのは、この藁人形たちが、海を鳴らせて、お母さんに知らせるからだと、言い伝えられています。今もなお、台風の近くなった時、波の音は聞こえるのです。






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